大阪歴史博物館 学芸員 大澤研一
うえまち漫遊 「まちの再発見」の巻
上町に向かう道㊸ 2016年6月号
梅田街道4 大和田を歩く
前回、大和田が漁業と関係の深いことを紹介しました。江戸時代の大和田は淀川河口部に点在する中州の中でも規模の大きな中州の北端に位置し、その南に大野と百島新田が続きました。この中では大和田が最も古く、逆に新しい百島 新田は17世紀末の成立です。今回は出来島との境界に架けられていた新千船橋(昭和3年)跡から大和田の中心部分を通り抜けることにします。この辺りの街道筋には「大和田街道」の道標(大阪市建立)がありますので、それを頼りに歩くと迷うことはありません。
安養寺 大和田を歩いていてまず気付くのは、街道沿道やその近くに寺院が多いことです。特に浄土真宗の寺院が目に留まります。このうち街道沿いの新千船橋跡付近善念寺は1475年の創建と伝え、前回紹介した住吉神社に近い安養寺も15世紀末頃に道場が開かれたといわれています。
つまり、遅くともその頃には大和田がいくつものお寺を支えることのできる経済力を持った集落だったことが分かります。この寺院や住吉神社が建つ所がまさに昔からの大和田の集落で、よく観察すると周囲からわずかに高い地形に位置していたようです。
街道をさらに進むと右手に大和田小学校(大和田4丁目)が見えてきました。街道に面した門からのぞき込むと「大和田城趾」の石碑が見えました。また、フェンスにはその解説版が設置されており、当地が「城ンタ」と呼ばれたことが書かれていまし。城主が目まぐるしく変わる城だったようですが、ここは集落に隣接した低地なので、城という言葉からイメージしてしまう石垣などを備えた立派な城郭ではなく、平地に堀(溝?)と柵をめぐらせて防御する程度の砦(とりで)だったとみた方がよいでしょう。
大和田は、1614年の大坂冬の陣の際にも戦場となりました。居地の備前国から大坂城を目指した徳川方の池田忠継がここで大坂方と激突したのです。この時の城の去就は分かりませんが、池田氏はこの戦いで戦功を挙げたと伝えています。ここが戦場となったのは当地が交通の要衝だったからでしょう。
大和田街道沿いの景観はすっかり現代的なものとなっていますが、こうした寺院や城跡から大和田の歴史を垣間見ることができるのです。なりわいの今昔に触れる貴重な機会となりました。
上町に向かう道㊷ 2016年5月号
梅田街道3 出来島と大和田の漁業
神崎川に架かる千北橋を南に渡ると西淀川区の出来島です。現在その姿は失われましたが、その名前から分かるようにここはかつて一つの島でした。北東~南西方向へ細長い島で、大和田街道はその東端近くをわずか150mほどで縦断した後、出来島の南を流れていた出来島川(大和田川)を新千船橋で越え、大和田へと入ったというわけです。
さて千北橋を渡った地点に戻りましょう。ここで大和田街道からいったん離れ、左に折れて直進してみると、その先、つまり出来島の東端部分に漁船の停泊する姿が見えました。ここはかつて神崎川から出来島川が分岐する地点を利用した船溜まりで、「大和田漁業組合」の看板が掛けられていました。大阪市内でも数少ない漁港の一つですが、真上を阪神高速道3号神戸線が通っており、いかにも都会の漁港というひと味違う景観が見られます。
その漁港の一画に白天宮という神社があります。この神社はもともと出来島にあり、それがいったん大和田へ移転した後にあらためて現在地へと移ってきました。地域の信仰を集めてきた神社ですが、ここで思いもよらない出会いがありました。それは「はつちやうおほはし」の文字を刻んだ石製の橋の親柱です。これは「八丁大橋」にあてられると思われますが、この橋は以前、本紙で梅田街道を取り上げた時に触れた「八丁橋」(126号)のことでしょう。こうした新しい情報が得られるので、寄り道はしてみるものです。
街道に戻り、出来島から大和田へ向かいます。かつて新千船橋が架けられていた出来島川は埋められていますが、旧流路は現在でも土地が少し低く、歩くとすぐに気づきます。 ここを越え大和田に入って間もなくのところで左折し、再び街道から離れました。その先には住吉神社があります。ここは天正3(1575)年の棟札を伝える中世以来の神社で、御幣島や野里の住吉神社同様、住吉大社がこの地一帯を社領とした際に、信仰の拠点として勧請されたのが開創の起源と思われます。ここ大和田の住吉神社には漁業関係者が奉納 した燈籠や石碑が目白押しです。先ほど漁港の紹介をしましたが、大和田は江戸時代には鯉を素手でつかむ鯉つかみ漁が大変有名なところだったのです。今回は当地の水辺の なりわいの今昔に触れる貴重な機会となりました。
上町に向かう道㊶ 2016年4月号
梅田街道2 佃から千北橋へ
大阪市と尼崎との市境、左門殿川に架かる辰巳橋は前回の梅田街道の起点でした。そこから少し東に行った所に佃南小学校があります。大和田街道はこの辺りから南へ分かれてスタートします。今回はその地点へ阪神電車千船駅から向かうことにしました。
千船駅は1905(明治38)年の阪神電車開業時に設置された大和田駅と佃駅が21(大正10)年に廃止・統合されて誕生しました。千船駅の所在地は現在、西淀川区佃3丁目ですが、その南、神崎川を越えたところに「ふね」の字が違う「千舟」の町名があると教えてもらいました。いろいろややこしいですね。ただ、千船駅の開業当時、この一帯は「千船村」の一部でしたので、もともと齟齬(そご)はなかったのですが、行政の変化が現在のようなズレを生み出してしまったのですね。
この千船駅のある場所はもともと蒲島という小さな島でした。島だった当時の面影をうかがうことはほとんどできませんが、駅の北側の道は蒲島のかつての堤防道を利用したものです。この堤防道を西へたどると大和田街道に当たります。現在、佃の中ではこの 街道は千北橋通(せんぼくばしどおり)と呼ばれています。この道に面している佃5丁目 交差点南西角のマンションの敷地に小さな地蔵堂がありました。お地蔵さんは不在のようで、代わりに観音さんが祭られていましたが、ここは丸赤醤油の前社長らによって1933(昭和8)年に建てられたことが石柱に刻まれていました。丸赤醤油は地元のしゅうゆ屋さんなのでしょうか。佃でしゅうゆといえば佃煮…が頭をよぎります。ここ佃で佃煮を製 造していたかよく分かりませんが、そもそも佃煮のルーツは江戸の佃にあるとか、住吉 神社への奉納物として始まったとか諸説あるようです。しゅうゆ屋さんの文字を見つけたことでいろいろと想像を膨らませたくなりました。
街道を南へ進むと、少し上り坂になって神崎川を渡る千北橋が目の前に現れました。見た目はどこにでもありそうなごく普通の橋ですが、架けられたのは1938年と、西淀川区内の橋としては26年架橋の神崎橋・歌島橋に次ぐ古さです。この橋を渡ると、これまた かつて島だった出来島に入ります。島のついた地名から昔の地形を想像しながら歩く。 今回の街道歩きにはそんな楽しみもありそうです。
上町に向かう道㊵ 2016年3月号
梅田街道1 大和田街道のあらまし
今回からは「大和田街道」を歩きます。この街道は前回の梅田街道の西側にあり、尼崎方面と大阪市を結ぶ道筋となっています。一時期、国道2号でもあった道でした。もともと目の前が大阪湾であるこの地区は、神崎川や中津川(淀川の旧流路)の河口部に多くの島が存在する場所でした。その島をつなぐようにして生まれたこの街道をたどってみたいと思います。 今回はどんな発見があるでしょうか?
まず、この街道の区間から見ていきましょう。1903年の『大阪府誌』によると、大和田街道の起点は「西成郡千船村大字 蒲島仮定県道尼崎街道」、終点は「西成郡鷺洲村大字浦江大阪市界」と書かれています。これを1915年の『西成郡史』を参考にしながら現在の地名でたどってみると、梅田街道の起点左門殿橋に架かる辰巳橋→佃→千北橋→大和田→大島橋→姫(稗)島→(淀川)→海老江→鷺洲→福島、という具合になります。西淀川区と福島区におさまる道筋です。
街道の呼び名については、大和田街道のほか、梅田街道と書かれたものも見受けられます。ややこしいので、今回は「大和田街道」で統一することにします。
この道はルートがいつごろ、どのように定まったのかよく分かっていません。江戸時代の絵図で探してみましたが、梅田街道以西には道が全く描かれていません。そこで明治時代の地図に当たってみましたが、詳しい1885年作成の測量図にもこの街道は見当たりません。前回、梅田街道を紹介した中で、1908年竣工の新淀川を渡る西成大橋に触れましたが、この橋の完成を機に大和田街道の名前が命名されたという説もあるので、明治中ごろにかけて道筋が整ったものとみられます。
最初に述べたように、この地域は島が多く、長い間、船の方が人や物資の移動に便利だった所です。近代に入り、鉄道・道路に交通手段の比重が変化していく中で、この街道も尼崎と大阪を結ぶ近道として整備が進められたのでしょう。ただ、この街道筋にある大和田や姫(稗)島の集落は中世以前にさかのぼるもので、その中心を通る道に面して古い寺院や史跡が見られます。こうした集落の中心道路を結んだのが大和田街道ではないかと想像しています。この想像が当たるかどうか、次回より実際に歩いてみます。
上町に向かう道㊴ 2016年1月号
梅田街道9 淀川大橋~出入橋 里~淀川大橋
長らく歩いてきた梅田街道も今回でいよいよ最終回。残る元気を振り絞って淀川大橋から出発です。国道2号に架かる淀川大橋は1926年に完成しました。橋ですから渡っている時はその外観をうかがうことはできませんが、堤防から眺めるとデザインに派手さはないものの、緩やかなアーチを描く水色に着色された鉄骨の素朴な機能美が感じられて、私はこの橋がとても好きです。河口部に近く川幅が広いので淀川大橋は724mもあり、歩くと10分くらいかかり、しっかりと渡った気分になります。
渡った先は福島区の海老江です。梅田街道のルートに戻るべく、橋のたもとですぐに堤防上を東へ折れ、そのまま堤防を歩きます。そうするとJR東海道線の鉄橋をくぐり、右側に歩道橋のような橋が見えてきました。もうサビサビの人道橋です。よく見ると「鷺洲一之橋」の名と1925年の架橋を示す銘板が取り付けられていました。実はこれ、梅田街道の延長線上に設置された橋だったのです。この橋はもともと淀川に沿って流れていた長柄運河に架けられていましたが、廃川になった後も橋だけが残されました。この橋は梅田街道が 新淀川によって分断された後、街道から堤防上へ上がるために新設されたというちょっと面白い存在です。
いよいよ北区です。大淀中5丁目で旧道の面影がしのばれる不自然な? カーブを堪能すると、その後は新しい街区が増え、街道筋をきちんとたどるのは難しくなってきました。お およその道筋を選び、浦江公園から上福島北公園、福島6丁目を抜けて国道2号の出入橋交差点に着きました。もちろん周りはビルだらけですが、ここから最後、出入橋までの間にかろうじて梅田街道の道が残っていました。オートバックスの西側の道です。わずか40mくらいですが、ここを抜けると出入橋に到着です。出入橋そのものを認識する機会は普段 あまりないと思いますが、1935年の架橋でかつ市内では珍しい石畳の橋です。明治時代の『大阪府誌』によれば、梅田街道はこの後難波橋北詰まで続くことになりますが、貴重 な姿を残す出入橋に迎えてもらいましたので、ここで今回の梅田街道歩きを終えることにしました。ご協力いただいた皆さんにこの場を借りて感謝申し上げます。
上町に向かう道㊳ 2015年12月号
梅田街道8 柏里~淀川大橋
野里の渡しを過ぎて柏里へ入りました。梅田街道はここから東南方向へと道をとります。比較的新しい住宅の間を歩いていくと、淀川(新淀川)の高い堤防が目の前に現れました。野里の渡しで越えた旧中津川の堤防痕跡とは比べものにならない巨大な堤防です。淀川自体は古い歴史をもつ川ですが、都島区の毛馬より下流部分の流路は1909年に竣工したものです。大雨が降るとしばしば洪水を起こした流路を大きく改め、13年をかけてこの部分ではまったく新しい流路が造られたのでした。
地図で見ると、この部分の流路が不自然なくらいに直線となっているのはそのためです。この改修以降、新流路での堤防決壊は一度もないので、この堤防は地域の守り神といえますが、梅田街道に関して言えば、この新流路ができたことで道筋が分断されてしまいました。新流路竣工直後の地図を見ると、道はいったん北へ向かったのち河川敷に下りて川を越え、梅田方面へと進むように描かれていますが、川を渡るのに渡し船があった痕跡はありませんし、橋が架けられることもなかったのです。
ただ、分断されたとはいえかつての道筋の場所を確認してみたい気持ちはありましたし、何より対岸に残るはずの街道の様子が気になったので堤防に上ってみることにしました。上がってみるとパッと視野が広がり、梅田の見慣れた高層ビル群が遠望できました。しかし対岸にあるはずの、梅田街道の続きの場所がよく分かりません。実はJR東海道線の鉄橋がちょうど間に挟まっていて邪魔をしているためなのですが、そうなると対岸に渡ってその場所を確認するしかありません。そこで少し下流の淀川大橋まで迂回(うかい)することにしました。淀川大橋は新流路竣工に先立って1908年に完成した西成大橋が前身です。西成大橋は当時、淀川で人間が渡ることのできる橋としては最も下流に設置された橋で、野里と海老江を直結する場所が選ばれたため、梅田街道筋とは違った位置に架けられました。
淀川の右岸堤防を淀川大橋へと向かって歩いていくと、まもなく鼻川神社が見えてきました。幸いこの鼻川神社境内には、西成大橋に使われていた石製の親柱が残されていました。鼻川神社は淀川新流路建設によって旧地が沈んでしまうことから現在地に移転したという経過をもっています。この地域の歴史は淀川の歴史と密接だったことを強く感じながら、淀川大橋へと歩みを進めました。
上町に向かう道㊲ 2015年11月号
梅田街道7 八丁橋から野里・柏里へ
八丁橋の交差点は五差路になっている大きな交差点ですが、梅田街道はここをさりげなく斜めに横切っていきます(ただし交差点の中央に分離帯があってまっすぐ行けないのは残念です)。交差点を越えた辺りは静かな住宅地で、街道はその中を進んでいきますが、急に道なりに大きく右へカーブし、阪神高速池田線をアンダークロスして歌島2丁目に入ります。ここからは左右に商店が現れ始め、少しにぎやかな現代風の街道です。
さらに南へ直進し、野里1丁目へ入りました。きょろきょろしながら歩いていると、左に「檞(かしわ)の橋・野里の渡し跡」と刻まれた石碑を見つけました。本当はここから左へ折れるのが街道筋なのですが、もう少し直進して野里住吉神社に寄ってみることにしました。この住吉神社も御幣島の住吉神社と同じく、この一帯がかつて住吉神社の社領であった歴史を伝える証人です。それとこの神社で注目したいのは、今神社が建っている場所が、かつてこの辺りを流れていた淀川分流の 中津川の右岸堤防だということです。中津川はしばしば氾濫する川だったので、1909年に新淀川が完成すると廃川になりました。この神社で行われている「一夜官女」という人身御供を擬した神事は、川の神を鎮めるためのものだった可能性があります。水域が広がっていた当地ならでは祭事です。
「檞の橋・野里の渡し跡」の石碑まで戻りました。ここから東へ向かいますが、実はここからはもともと中津川の水面で、江戸時代には野里の渡し船、1876(明治9)年には檞の橋が対岸との間を結んでいました。そう思って歩き始めると、住吉神社があった古い集落部分に比べてやや新しい町の雰囲気が感じられます。途中右側に広い敷地の柏里小学校があるのも、もともとここが川だったことを考えれば納得できます。そんなことを考えながら少し歩くと、わずかに道が上がりはじめました。どうも対岸の堤防だった辺りに到着したようです。しかも、そこにはちょうど「サンリバー柏里」という商店街の看板があがっていました。この名前は中津川に由来するものだと一人納得した次第ですが、それは当たっているのでしょうか。それとも私の深読みなのでしょうか。
上町に向かう道㊱ 2015年10月号
梅田街道6 御幣島から八丁橋へ
御幣島の集落を歩いて北へ抜けると、香簑(かみの)小学校がありました。古い地図を突き合わせて見ると、この小学校は梅田街道の南側に沿って建っていることに気付きました。そうなると学校の歴史が気になるところですが、まずは校名に何か特徴的なものを感じたので、1974年刊行の百周年記念誌をひもといてみました。
この学校の歴史は古く、1885年に加島と田簑の2つの学校が統合したために香簑小学校と名乗ることになったようです(加島の「か」と田簑の「みの」)。同校の校歌に「つたえゆ かしき八十島や」というフレーズがありますが、前回紹介した御幣島にしても、この加島・田簑(島)にしても、「八十島」といわれたこの地域の景観を創った島の名前なので、この校 名は当地の歴史をよく表したものともいえるわけですね。
この百周年記念誌を読んでいて、貴重な証言を見つけました。1905年卒業の方が書かれた文章の中に学校の前の道が「八丁街道」と呼ばれ、それが佃へと通じていたというのです。これはまさに梅田街道のことです。こんな呼び方があったものかと思ってまたいろいろな資料を探してみたところ、1687年の地図でこの街道ルートの脇に「八町堤」と書いて あるものを見つけました。そして、この「八丁」は現在もその名を残していたのです。
香簑小学校前から東へ向かう梅田街道は、いったん区画整理が行われた場所にさしかかるため旧道のルートがたどれなくなりますが、御幣島3丁目と歌島2丁目の境付近で道筋が復活します。その場所が、中島大水道(現在は緑道)に架けられていた八丁橋(現在は交差点)近くなのです。こ八丁橋交差点付近にある「八丁」を名乗る銭湯前の街道㊤と緑道案内板に残る「八丁」の文字の八丁橋交差点近くには八丁を名乗る銭湯もあって、突然「八丁」一色ともいえる地区に足を踏み入れた感があります。
では「八丁」とはどういう意味なのでしょうか。「八丁」は他地域では「八丁畷」という言い方もあって、一般には田畠の間の長い細道の意味で使われる言葉です。「町(丁)」は距離の単位ですが、八町という距離(約900m)ではなく、ここでは長い(まっすぐな)道の比喩として使用されています。この地域では、かつて御幣島村の東の集落は野里村でしたの で、その間およそ1・5㎞、梅田街道は畠地の間の小高いところ(堤)を通っていたものと想像されます。「八丁」はそうした当地の街道筋の景観を伝える数少ない証人ではないでしょうか。
上町に向かう道㉟ 2015年9月号
梅田街道5 御幣島ぶらり
東京の佃まで遠い道草に行って帰ってきました。今日から梅田街道に復帰です。早速佃の集落から東へ向かうと、すぐに神崎川を越える佃の渡しの跡に着きます。現在、ここは船はもちろん橋もなく、さらに護岸が高いため残念ながら対岸の御幣島を望むことすらできません。仕方がないので南へ迂回(うかい)して国道2号の神崎大橋を渡り、佃の渡しの対岸へと向かうことにしました。
神埼大橋から見る佃の渡し付近 この辺りは慶長10年(1605)摂津国絵図では「三テ倉村」とあります。現在は御幣島(みてじま)といい、少し珍しい地名なのでその由来を考えてみようと思いました。まずは明治年間と現代の地図をつき合わせてみると、古い御幣島村の中心部の地割がそのまま今も 残っているらしいことに気づきました。これは期待ができそうです。JR東西線の御幣島駅近くはビルやマンションが多いのですが、ここから北西へ少し入ってみると、屈曲した道と細い路地、そして古い家が残る一角が現れました。この一帯は、道についても昔のまま(江 戸時代以来?)の位置で残っているようです。一方で変化も見られました。地図では村内に寺院と神社が一か所ずつあることになっていましたが、現在はお寺だけになってしまっています。そこで、なくなってしまった神社が気になり調べてみました。そうしたところ、それは住吉神社だったことが分かりました。
この神社は明治42年(1909)、加島の香具波志神社に合祀されて、現在、旧地には「住吉神社趾」の碑が建てられています。住吉神社といえば住吉大社の系列に属することになるので、次は住吉大社の記録「住吉松葉大記」を調べてみました。すると、西成郡の「幣嶋」(てぐらじま)が住吉大社のかつての神領として書き上げられていました。これはまさに御幣島のことです。住吉の神といえば航海の神で、海の近くや水辺に祭られることが多いのですが、実際、御幣島の名前には“島”がつけられていますし、さかのぼって9~10世紀頃には「幣帛浜」と呼ばれていましたので、かつてここは海に近い、川の河口に点在する島の一つではなかったかと思われます。「幣(帛)」とは神への捧げ物のことなので、御幣島は神への信仰と土地の姿が結びついた地名といえるでしょう。
今回は御幣島の歴史と景観に思いをはせることができ、梅田街道の道歩きの楽しみをまた一つ増やすことができました。
上町に向かう道㉞ 2015年8月号
梅田街道4 番外 東京・佃編
佃の漁民が江戸へ移住した跡を追って、東京へ行ってみることにしました。ところは東京都中央区の佃です。地名がそのまま引き継がれているのですね。そしてここは海に近く、川(隅田川)に面しているところも大阪と同じです。もともとは干潟だったところを徳川家康から与えられ、そこを開発して佃島を築いたといわれています。
まずはこの佃の全景を見てみたいと思い、JR京葉線八丁堀駅から隅田川に架かる佃大橋へ向かいました。この橋はかつて渡船が運航されていた場所に架けられており、橋の上からは佃の町が見えるはずです。佃は関東大震災や戦災の被害に遭っておらず、古い景観が残っていると聞いていたので、期待で胸が高鳴ります。
橋に上がった瞬間、ぱっと視界が開けました。そして対岸に低い家並が見えました。ここが佃です。一方、都心ですから当然のことでしょうが、その背後には高層マンションが林立しており、その対照的な光景には驚きました。
町の中に入ってみましょう。地図では分からなかった狭い路地があちこちに残っており、そう古い建物は見受けられなかったものの、銭湯もあったりなにか懐かしい情感が漂っています。江戸時代から続く「佃煮」の店も漁業と関わりの深い町の歴史を物語る大切な証人です。
大阪の佃との関係でいえば、住吉神社の存在も見過ごすことはできません。実は移住してきた人たちには大阪佃の住吉社の神職だった平岡氏が加わっていたそうで、当地では1646年に住吉神社が創始されました。住吉四神と徳川家康が祭神とされ、みこしが氏地を巡る3年に一度の船渡御は大いににぎわうようです。
佃の町を巡るように、隅田川から水を引く佃堀があります。釣り船が係留されているところはまさにそれらしい風景ですが、この堀には干満の関係で海水も入り込んでくるようで、干潟の雰囲気を再現した公園もありました。ここでは海の魚や貝・カニなど生物も観察できるそうです。
それほど広くはない佃の町でしたが、大阪からの移住の歴史がよく紹介され、かつ大きな開発の手も及ばずゆっくりと時間が流れているようで、少しうれしく感じられました。
上町に向かう道㉝ 2015年7月号
梅田街道3 佃と田蓑(たみの)神社
佃中学校前の梅田街道を東へ進み、左門橋南詰の交差点を越えると道は二手に分かれ、街道は左手の左門殿川堤防上をたどります。一方、右手に道をとると旧の佃の集落へ入っていきます。その分岐点には1945(昭和20)年6月26日の空襲で亡くなった53人を慰霊する「被爆者鎮魂碑」が建っています。今年は戦後70年にあたります。こうした悲惨な歴史が繰り返されないことを祈るばかりです。
佃の旧集落に入ってみましょう。ここのシンボル的存在は田蓑(たみの)神社です。田蓑神社にはこの地域の歴史が凝縮しているといっても過言ではないでしょう。まず拝殿に向かいました。正面には「住吉大明神」の額が掲げられています。また社殿も住吉大社と同じ 底筒之男命・中筒之男命・表筒之男命・神功皇后を祭った四社から構成されています。
実は佃に限らず、周辺の御幣島(みてじま)・大和田・野里にも古くから住吉神社があり、御幣島以外は現在もそれぞれの場所で存続しています。そのなかで田蓑神社は869年勧請という最も古い由緒を誇っていますが、この西淀川一帯はもともと淀川(中津川)・神崎 川の河口に広がった三角州で、少なくとも13世紀頃までは多くの島が点在する場所だったようです。それが河川の堆積作用によって徐々に陸地として安定していったわけです。住吉の神は海上・河川交通の拠点に勧請される事例が多いのですが、それは住吉大社が かつてそうした場所に領地を求め、分社を置いたためと考えられます。
田蓑神社の境内には佃の地の歴史を感じさせる石碑が多く建てられています。平安時代の歌人・紀貫之が田蓑島について詠んだ歌の碑や、かつてこの地一帯にアシが群生していたことを伝える謡曲「芦刈」の石碑などです。佃の水辺の風景がしのばれます。
佃といえば、大阪では数少ない徳川家康ゆかりの地です。神社境内には家康を祭った東照宮が鎮座していますが、家康が神崎川を渡る際、佃の漁民たちが船を出して便宜を図ったといわれています。また江戸城が建設された後には佃から34人が江戸へ下向して江 戸周辺で漁業権を得、後には土地も賜りました。そこには大阪と同じ佃の地名がつけられ、住吉神社も勧請されました(現在の東京都中央区佃)。次回はその足跡を探しに東京まで足を伸ばしてみます。
上町に向かう道㉜ 2015年6月号
梅田街道2 辰巳橋から佃へ
梅田から阪神電車で大物駅に着きました。いよいよ梅田街道歩きのスタートです。とはいっても今回の本当のスタート地点は大阪市と尼崎市の境界にある辰巳橋なので、途中のレンガ造りのユニチカ記念館(1900年造、もと尼崎紡績会社)が気になりながらもまずは橋まで直行です。ところがこの辰巳橋、よくよく探したのですが、橋の名前の表示(橋名板)が見つかりません。記念すべき出発点なのですが、写真も撮れずに少し残念でした。
橋を渡るとそこは西淀川区の佃です。ここは神崎川の河口にできた中州の一つで、江戸時代では佃村にあたります。街道はおおよそこの中州の北辺、左門殿川(さもんどがわ)の堤上を東へ向かうルートをたどっていましたが、現在では途切れ途切れになっています。しかも辰巳橋からもういきなり道筋がたどれなくなっているようだったので、詳しい地図で下調べをしてみたら、橋から5分ほどのマンション「マイシティ大阪」の敷地内を通る歩道がどうも街道筋を踏襲しており、建物のいくつかもそれに 沿って配置されていると直感したのです。そこで現地へ行ってみたところ、その歩道は街道によくあるようにゆるやかにカーブしながら、マンションの敷地の東端(佃南小学校南前)で現在も残っている街道筋にうまくつながっていくことがわかりました。こ の道筋で間違いないでしょう。
佃南小学校からしばらくは街道筋が良く残っています。工場街を抜け、阪神本線の高架をくぐるあたりまで(佃3丁目・2丁目境)です。この辺り、景観がすっかり変わってしまいましたが、かつては畑や田んぼが広がるのどかな光景が見られたようです。 高架の先は大阪市の公社が建てた「佃コーポ」の敷地です。現在はいったん南へ迂回(うかい)しますが、もともと街道は直進してこの敷地内を抜けていました。驚いたのは、ここでも敷地内の歩道がほぼ街道筋と考えられることと、それに沿う形で建物 が建てられていることです。古い道を残そうとして設計したとは考えにくいのですが、道が持つ「歴史の重み」がそうさせたのでしょうか。今回の街道歩きではいろんな発見がありそうな、そんな予感を抱きながら佃の集落へと向かうことにしました。
上町に向かう道㉛ 2015年5月号
梅田街道1
「富のみなもと工業地帯」を通り抜けて
今回より、大阪市の北部から上町台地方面へと向かう道を順番に取り上げることにします。まずは、尼崎から梅田へ至る梅田街道です。多くの方にはあまりなじみのない道かと思いますので、今日はその歴史を中心にお話ししたいと思います。
梅田街道は、明治36 (1903)年の『大阪府誌』によれば、その区間は尼崎の辰巳橋~出入橋西詰~堂島浜通3丁目~難波橋北詰となっていて、距離は全長で約9・5㎞あります。途中、西淀川区佃(つくだ) や御幣島(みてじま)、野里(のざと)、福島区鷺洲(さぎす)を通りますが、それは「富のみなもと工業地帯」(大阪市立香簑小学校校歌)とうたわれたところを横断するコースとなります。
では、この街道はいつごろから存在したのでしょうか。地図を使って時代をさかのぼってみましょう。まず、明治18年の地形図では「至大坂道」という名称とともに道筋が描かれています。江戸時代、17世紀中期の『大坂並周辺村落図』(篠山市教委蔵)では、道筋に加えて街道が神崎川を渡る地点にあった佃の渡しのかわいらしい舟まで描かれています。さらには慶長10(1605)年『摂津国絵図』(西宮市立郷土資料館蔵)でも同様に道筋ははっきりと描かれています。
文字の記録も見てみます。江戸時代、18世紀中頃の『摂津名所図会大成』では「大坂より尼崎にいたる近道」と登場します。同じ頃の『摂陽奇観』では「尼崎わき道行けば渡し三ツ、野里・佃に神崎のしも」とも書かれています。「近道」とか「わき道」とか、どうも独自の名前がなかったようですね。それが明治になって梅田街道と命名された模様です。
しかし、道筋そのものは江戸時代より古くさかのぼりそうです。1531年の大物崩れという戦争を記録した『赤松記』を読むと「野里のわたり」が登場します。これは細川高国軍と戦った浦上村宗軍が大阪の渡辺(現天神橋付近)から尼崎へ敗退する途中、多くの兵がここで討死したという内容です。この敗退ルートはまさに梅田街道の道筋です。梅田街道の道筋は遅くとも16世紀初めには存在していたことは間違いありません。
梅田街道に関するこれより古い手掛かりは残念ながらつかめていません。しかし、尼崎と大阪はともに長い歴史を持つ都市なので、その両者を結ぶ道の歴史がさらにさかのぼると想像することは許されるでしょう。
次回からは、いよいよ実際に歩き始めることにします。
上町に向かう道㉚ 2015年4月号
古堤街道3
今福から京橋へ
今福南2丁目の西端まで来たので、古堤街道に戻ることにします。ここから目的地京橋へは寝屋川に沿って西へ向かうのが最短なのですが、古堤街道は寝屋川の北側に並行して流れていた鯰江川(なまずえがわ)の北岸の堤上を進んでいくことになります。
街道が鯰江川を渡るところに架かっていた三郷橋の北詰に三郷橋稲荷大神が鎮座しています。その前に「今福の丸木舟出土跡」という解説板が建っていました。1917年、当地で鯰江川の川底から長さ約13・5mの丸木舟が出土しました。これは戦災で失われてしまいましたが、古墳時代から奈良時代頃のものと推定されていました。当時、この辺りは河内湖の水域が広がっていましたので、そこを行き交う際に使用されたのでしょう。
斜め向かいにある郵便局の先を左に曲がったところから、もと堤防の上の道筋に入ります。少し進むと右手に「城東商店街」のアーケードが見えました。例によって寄り道をしてみると、商店街の中に「今福・蒲生・激戦地の跡」という手書きの大きな看板が上がっていました。1614年、大坂冬の陣が戦われましたが、ここ今福・鴫野一帯も豊臣・徳川両軍が激 突した場所の一つで、徳川方の上杉景勝隊が大坂城から反撃に出た木村重成隊らを激戦の末に破っています。
堤防上の街道筋に戻りましょう。歩いていると「つつみクリニック」という看板が目に止まりました。これは偶然なのでしょうが、堤防上で“つつみ”とは道歩きが好きな私たちのための“演出サービス”と勝手に思ったらなんだか楽しくなりました。もう一つこの道筋で面白いところは、道部分は高いのですが両側(もと鯰江川側とその反対側)が低くなっている場 所が随所で確認できることです。このようなところを見ると、ここが堤防だったことがよく分かりますが、特に蒲生3丁目付近は顕著です。
さあ、いよいよ京橋に着きました。京阪電車京橋駅のすぐ北側に文政9年(1826年)の道標が建っています。京街道と古堤街道の方角を案内しており、後者は「右 大和 なら/のざき」と刻まれていました。改めてここが大和へ向かう古堤街道の起点であることを認識し、短い旅を終えることにしました。
上町に向かう道㉙ 2015年3月号
古堤街道2
諸口から今福へ
前回から寝屋川の右岸に沿って古堤街道を西へ向かっています。道筋は分かりやすいのですが、その分景観の変化に乏しいので、今回は北側に並行するもうひとつの旧道を歩いてみることにしました。昔の諸口村・横堤村・今福村を結ぶ生活道路だった道です。
前回紹介した「大地主大神」を西へ過ぎたところで、北へ少し上がると旧諸口村の中心部です。ここで左へ折れて旧道を西へと向かいます。茨田南小学校の前にさしかかったところ、小学校の前に建つ大阪市の広報版に「地車曳行」の掲示が貼られていました。住民の皆さんのつながりが生き続けている土地であることが分かりました。
ゆるやかにカーブする旧道をさらに進むと右前方に木立が見えてきました。地図を見ると旧横堤村に着いたようです。この杜は村の鎮守さんではないかと想像されたので、寄ってみることにしました。いかにも村落の内部らしい細い道の先に神社の鳥居が見えました。横堤八幡宮です。由緒書を読むと、この神社は南北朝時代の1360年に石清水八幡宮を勧請して横堤地区の鎮守としたとありました。少し西にある今福村は中世には石清水八幡宮領でしたので、横堤村も同様だったのでしょう。同社領は水運の至便な土地に置かれる傾向がありましたので、この地がかつて水域に接していた歴史を伝える貴重な証人といえるかもしれません。それにしてもこの横堤は細い道が旧集落の中を折れ曲がりながら通る古い景観をよく遺しています。大阪市内も歩く楽しみがまだまだありそうです。
横堤を抜けるとしばらくは大きなマンションや工場が立ち並ぶ景観が続きます。昔は畑などの農地が一面広がっていたところです。そうこうしていると道は鶴見区から城東区へと入り、城北運河を渡って今福の旧集落に到着しました。この運河は寝屋川に流れ込んでいますが、その合流部の水門に並んで橋が架けられています。その名は古堤橋。1936年 架橋の橋ですが、古堤街道の名前を現地で目にすることができる数少ない存在なので、必見の橋といえます。今回は本来のルートから少し外れましたが、その分この地域の別の 歴史に触れることができました。次回、今福から西はまた古堤街道のルートに戻ることにします。
上町に向かう道㉘ 2015年2月号
古堤街道1
徳庵駅から古川合流地点へ
今回から古堤街道を歩くことにします。この街道は奈良県生駒市を起点とし生駒山地の龍間峠から大東市中垣内へ越えた後はほぼ真西に向かい、途中から寝屋川の右岸に接し、最後は京阪電車京橋駅横で京街道に合流します。さらに西へ進むと上町台地の北端、京橋に達しますが、本シリーズでは大阪市内の区間、鶴見区徳庵から京橋駅までをたどります。
古堤街道の名前は明治に入ってからのものですが、中世にはこのルートに沿う人の移動が確認できます。ただし、それは水上交通も併用する移動でした。なぜなら、このルートにあたる大東市から大阪市にかけての一帯にはかつて深野池・新開池という広大な水域が広がっており、舟の利用が便利だったためです。例えば、1570年に奈良から大坂を訪れた二条宴乗は、「とゝ越」(龍間峠越)で生駒山地を越え、その後は中垣内→【舟:深野池】→御供田(大東市)→【舟:新開池】→大坂とたどりました。しかし、1704年に大和川が 付け替えられるとこれらの池に流入する水量は減少し、干拓が進められましたので、陸上の古堤街道の利用が増えてきたのです。ただ、野崎観音(大東市)に参詣する人々が大坂の八軒家浜からしばしば寝屋川の舟運を利用したように、このルート沿いの移動は陸上と水上の2つの手段が長らく用いられ続けたのでした。
今回の出発地点はJR徳庵駅です。駅前から北へ向かうとまもなく寝屋川をまたぐ徳庵橋です。その南詰を東へ行くと住吉神社がありました。ここは寝屋川筋の水運関係者が勧請したといわれ、小社ですが水運の華やかりし頃をほうふつとさせる存在です。徳庵橋を北に渡ります。古堤街道は寝屋川の北側堤防沿いの道なのです。歩き出してほどなく北から 合流する古川にさしかかりました。北河内の物産を大阪へ運送する大動脈の一つだった川です。寝屋川が北河内・中河内の河水を集めて大阪湾にもたらす役割を負っていることが実感できます。この辺り、寝屋川の北岸は工場が多かったところですが、現在ではマンションに変わっています。その一つ、街道に沿ったマンションの敷地に「大地主大神」と刻ん だ石が建てられていました。石には昭和35年建立とありましたが、古くから土地の神として信仰されてきたのでしょう。小さな発見ですが、この土地の歴史に触れた思いでした。
上町に向かう道㉗ 2015年1月号
紀州街道8 脇道編
天下茶屋から天王寺へ
紀州街道本体を歩くのは前回までで終わりましたが、おまけ? として紀州街道の脇道をご紹介しておきましょう。それは「天王寺道」(『住吉名勝図会』)と呼ばれた道で、天下茶屋で紀州街道から分かれ、四天王寺へと続きました。あまり知られた道ではないので、ぜひみなさんも歩いてみてください。
出発地点は天下茶屋駅の東に位置する天下茶屋3丁目7番地です。ここを南北に通る紀州街道から天王寺道はまず東へと分岐します。この分岐点からすぐの地点に一体のお地蔵さんが祭られています(3丁目4番地の角)。このお地蔵さんは、台座の銘文によれば文化4年(1807年)に衆生の極楽浄土への往生を願って建立されたことが分かります。興味深いのはそこに刻まれている世話人の居住地です。ここには天下茶屋・新家(今宮新家)・今宮・長町・道仁町・勝間・天王寺の地名が見えるのです。これらの地名は紀州街道と天王寺道に沿ってあった村や町なので、その点で街道の分岐点にふさわしいといえましょう。このお地蔵さんは2つの道を行き交う人々を見守る存在だったのでしょう。
ここからは途中、天下茶屋商店街にクロスしながら北東へと進んでいきます。このあたりは自動車一台の通行がやっとというほど道幅が狭いところもあり、昔の道をしのばせます。そうこうしていると阪堺電車の踏切にさしかかります。ちょうど北天下茶屋駅と松田町駅の中間あたりです。ここからしばらくは歴史を感じさせる雰囲気が少なくなりますが、やがて道は 「動物園前一番街」の商店街へと入っていきます。この商店街の存在は以前から知っていましたが、それが古い街道に沿ったものであることには初めて気付きました。ここの北側には 新世界のジャンジャン横丁が続きますが、ここについても同じことですね。地域の中の商店街はこのように、古くからある街道と無縁ではないのです。
そのまま通天閣の東側を北上し、国道25号に到達しました。ここは江戸時代の合邦ヶ辻。さらに東へ道をとればそのまま四天王寺の西門へと到達します。せっかく天王寺道を歩きましたので、このまま四天王寺へ参詣し新年を迎えることにしましょうか。
上町に向かう道㉖ 2014年11月号
紀州街道7
恵比寿町から高麗橋へ
これまで6回に分けて紀州街道を歩いてきましたが、今回がラストとなります。今回、道筋自体は大変シンプルで、ずっと堺筋を北上し、最後に右折して高麗橋通に入るというルートです。では、恵美須町から出発しましょう。
青線=今号掲載の街道 恵美須町から日本橋の間は「でんでんタウン」と呼ばれる電気屋さんの町です。私も30年ほど前、学生の頃にはアンプやレコードプレーヤーを求めて安い店を探し回った経験があります。当時は個人商店が多かったのですが、各店とも活気があり、いつ行っても人出が多かった記憶があります。現在はすっかりサブカルチャー街に様変わりしてしまい、電気店街の光景も歴史の一こまとなりつつあるように感じました。
道頓堀に架かる日本橋の北西角の公園には、道頓堀を開削したとされる安井道頓たちを顕彰する石碑が建っています。道頓堀は2015年、完成してから400年の節目を迎えます。安井道頓は実は架空の人で、成安(なりやす)道頓が正しいと指摘されて久しいですが、 最近では開削当時の絵図も見つかるなどしていますので、この機会に、大阪を代表する観光地でありかつ歴史遺産である道頓堀のことをもっと皆さんに知ってもらえたらと思います。
島之内の歓楽街を横目に北進すると、もと長堀に架けられていた長堀橋のあとを通過します。この場所の北西角には長堀橋跡記念碑があります。江戸時代、大坂の町にあった橋のうち、大坂城周辺と主要街道筋の橋は幕府が設置・管理する公儀橋に指定されていました。公儀橋は12のみでしたが、日本橋も長堀橋もその中に含まれていました。
古い街道の景観がすっかり払拭(ふっしょく)された街道筋を過ぎ、いよいよ最終目的地の高麗橋に到着です。東横堀川と交わる高麗橋通の歴史は古く、豊臣時代にはこの地点は船の発着地ともなっていました。大坂城へのメーンのルートであり、交通の要衝に位置したことが街道の起点とされた理由なのでしょう。そして近代に入ると、高麗橋東詰に里程元標が設置されたのでした。
さあ、大阪の街道の原点に到達したところで、次はまた別の街道歩きをスタートさせたいと思います。どうかご期待ください。
上町に向かう道 番外 “備中編” 2014年10月号
岡山県高梁市に松山城と吹屋の町並みを訪ねて
去る9月6日・7日と上町台地歴史講座恒例の1泊見学会がありました。私も同行させていただき、大変充実した時間を過ごすことができましたので、その報告をしたいと思います。
総勢30名で大阪を出発したバスは一路山陽自動車道を岡山県の高梁市へ向かいました。ここは江戸時代、松山と呼ばれた城下町です。ここの見どころは標高400mを超える山上に建つ松山城です。最近「天空の城」という言葉がはやっていますが、この城は城下町から300mも高いところにある、まさに天を仰ぐように見上げる城です。その分、城までは一番近い駐車場からでも20分ほど歩く必要はありますが、山上から城下町を望む大パノラマには皆さんの歓声が上がりました。山上に残る城の遺構も迫力満点です。城壁や天守の台座に上手に組み入れた自然の巨石や、国内で現存する古天守の中で最も小さい高さ11mの天守閣(重文・1683年頃)は大きな見せ場でしょう。
城を下ってからは城下町で武家屋敷を見学した後、小堀遠州の作庭が遺る頼久寺を訪れ、庭を眺めながら小休止。その後、高梁キリスト教会(1889年)、高梁市郷土資料館(もと尋常小学校・1904年)の近代建築をまわり、一路宿泊地の吹屋へと向かいました。
大雨をくぐり抜け、吹屋に着いたころはすっかり天候も回復。夕食後、ライトアップされた旧吹屋小学校(1900年)を楽しみました。山間部にある吹屋は江戸時代~戦前にかけて日本を代表する銅山の麓の集落として多くの人口を抱え、活況を呈しました。この小学校や近くの町並み(国選定重要伝統的建造物群保存地区)はそうした歴史の証人として整備が進み、多数の歴史ファンを迎えています。
吹屋といえばベンガラが代名詞です。ベンガラとは硫酸鉄を原料とした赤色顔料で、陶磁器の赤絵色付けのほか、防腐効果があるため家屋の塗料としても使用されました。このベンガラで塗った建物が続く「赤い町並み」は往時のにぎわいを十分に感じさせてくれるものでした。ベンガラの販路は広く、大阪でも江戸時代の遺跡から出土しています。また当地の信仰を集めた銅栄寺(いかにもという名前ではありませんか)には、「大坂玉造」の樋口義知が奉納した石地蔵がありました。吹屋は銅山が当初住友家の経営だったこともあり、大阪とは縁浅からぬ土地だったのです。一瞬、大阪そして上町へと続く道筋が見えたような気がしました。
上町に向かう道㉕ 2014年9月号
紀州街道6
新今宮から恵美須町へ
青線=今号掲載の街道 JR新今宮駅が今回の出発点です。紀州街道は新今宮駅のホーム下をくぐって北へ向かいます。ところで、街道がホームをくぐるこの場所に、紀州街道の名前が記された“遺物”があるのをご存じでしょうか。首が痛くなりますが、上を、よく目を凝らして見てください。「橋りょう名紀州街道架道橋」と書いてあるのに気が付きましたか?ホームの上を歩いているとまったく分からないのですが、実はここ、紀州街道をまたぐ「橋」だったのです。遅くとも昭和初めにはこの箇所は立体交差となっているので、この架道橋の歴史はそこそこ古いといえるでしょう。紀州街道を歩いていても、街道の名前を認識させてくれる場所やモノは少ないので、ここはぜひ、皆さんの目で確かめていただきたいと思います。
そのまま北上を続けると恵美須西町を抜けて国道25号にあたります。ここで道はいったん東に折れ、さらに恵美須町の交差点を北に折れて北上することになります。このクランクの形状は江戸時代と変わっていません。こういう場所もしっかりと残っています。その恵美須町交差点の南には阪堺電車の恵美須町駅があります。1911年開業の駅なので、もう100年を超えています。特に飾るでもなく、すっかり町になじんでいる様子がかえって都会的で、個人的にはとても好きな駅の一つです。
なお、この駅の南西にはかつて江戸時代の俳人だった小西来山(1654~1716)が晩年住んだ十萬堂があり、現在はその顕彰碑が建っています。来山がこの地を選んだのは、当時この一帯が閑静な環境だったからといわれています。確かに恵美須町交差点から北は江戸時代には街道に沿って町ができており、大坂の町に組み込まれていました。しかし、交差点の南側となるこの地は、街道に近いとはいえ今宮村に属する場所でした。そうした都会からちょっと外れた立地を来山は好んだのでしょう。
このように、この恵美須町交差点の一帯は江戸時代の大坂の町と郊外の地を分ける場所だったのです。次回はいよいよ街道が大坂の町へ入っていきます。
上町に向かう道㉔ 2014年8月号
紀州街道5
天下茶屋から新今宮へ
青線=今号荊妻の街道 今回は南海高野線の天下茶屋駅から出発しました。阪堺電車の北天下茶屋駅へ続くこじんまりした商店街に入ると途中で紀州街道と交差します。ここからが前回の続きとなります。
北へ歩き出してまもなく、かつて北天下茶屋市場だった少しレトロな建物を利用したスーパーや、看板にさりげなく「創業大正八年」と書き込んだ時計店が目に留まりました。この辺りは天合商店会のお店が並んでいるところです。一見するとどこにでもある印象の商店街ですが、キョロキョロしながら歩いてみるとこのように何かしら発見があって楽しいものです。
今宮小学校の横を過ぎ、天下茶屋北2丁目へと入っていくと、まもなく「あいりん地区」です。左手に東萩町公園が見えてきました。この公園の角で、街道に斜めに交わる道があります。ここはかつてJR天王寺駅と高野線天下茶屋駅を結んでいた南海天王寺支線の廃線跡で、街道のすぐ右側には今池町駅がありました。この路線は1993年に廃止となりましたが、通常なら電車の振動と騒音を吸収するためにレールの下に敷かれるバラストという石が投石に使用されるとのことで、ここではほとんど設置されていなかったという話を聞いたことがあります。時代を感じさせる話です。
この辺りは安く宿泊できる宿が多いというので、最近は外国人バックパッカーに大人気だそうです。宿泊者の8割方が外国人だというホテルもあるらしく、歩いていると今にも色々な外国語が耳に飛び込んできそうです。
目の前にJR新今宮駅が見えてきました。その手前の交差点でふと道の右側を見ると、紀州街道の案内板があることに気付きました。そういえば、紀州街道の案内板はこれまでほとんど見ることがありませんでした(気付かなかっただけかもしれませんが)。歴史の道として売り出しに成功した熊野街道と違い、紀州街道はまだまだ知名度が低いように思います。古い歴史を感じさせるポイントが少ないのは事実ですが、街道ならではの魅力を幅広く紹介していくことが大切なのではないかと感じました。
上町に向かう道㉓ 2014年7月号
紀州街道4
住吉から天下茶屋へ
たっぷりと住吉大社で休憩しましたので、再び歩き始めることにしましょう。ここからしばらく街道は阪堺電車阪堺線の路線と重なります。道幅は広いのですが、中央をど~んと電車の線路が占めていますので、自動車は肩身が狭そうです。心なしか自動車の速度は他所より遅く感じられ、その分歩行者にとっては歩きやすい道のようです。
そうこうしているうちに、街道は住吉区から西成区に入りました。この辺りは玉出東という住所ですが、ここで道の東側に道標をみつけました。「すく帝塚山」と刻まれています。ここから東方は上町台地になっていて、この道標のある場所は台地の上り口にあたります。道標に誘われて上っていくと、大阪市内で唯一全体の形が残る前方後円墳の帝塚山古墳(5世紀)が現れます。時間があればぜひ立ち寄ってみたいところです。
道標の場所からまもなく街道は阪堺線の線路に別れを告げます。この場所はちょうど南海高野線と交差する場所にもなりますが、ここに同社の玉出変電所があります。この変電所はレンガ造りで目立つものなので、私もかつて高野線を利用し通勤していたときから印象に残っていました。これは明治44 (1911)年の建築で、武骨な印象の建物ですが、南海・阪堺の両電車に電力を送り続ける現役の施設として活躍しています。
ここから先は天下茶屋にさしかかります。天下茶屋は街道の往来が活発になったことから誕生した集落で、岸里東2丁目にはその名の由来となった茶屋の跡があります。ここは豊臣秀吉が堺や住吉大社へ往来した際に立ち寄って休息し、茶の湯を楽しんだと伝えられています。現在は、ゆかりの芽木家住宅にあった土蔵のみがひっそりと残されています。また茶の湯といえば、街道をはさんで東側にある天神森天満宮は16世紀の茶人武野紹鷗が滞在し、さらに安産に霊現あらたかな「子安石」のあるところとして、「紹鷗之森」「子安天神社」の名で江戸時代からよく知られていました。こうした見どころも含め、街道筋らしいにぎやかさが感じられる天下茶屋を過ぎると、ほどなく今宮となります。
上町に向かう道 ㉒ 2014年6月号
紀州街道3
住吉大社でひと休み
大和橋から北上を始めた“紀州街道歩き”も住吉大社に到達しました。住吉大社といえば摂津国一の宮という社格を誇る神社で、大阪での初詣といえばやはり“住吉さん”という方も多いでしょう。今回はこの“住吉さん”の境内に立ち寄ってみたいと思います。
“住吉さん”は長い歴史の中で、航海安全の神様、和歌の神様など、様々な性格を帯びるようになりました。前者に関わっては、古代に中国へ向かう遣唐使船が住吉へ寄港した後に渡海しましたし、船による輸送の安全を祈願して奉納され、現在も境内に建ち並ぶ石燈籠はなんと650基余りを数えます。
昨年、縁があって私は山形県で「川が結ぶ文化」という内容で講演をしたことがありました。山形といえば最上川。そして、特産品といえば、染料や化粧品の原料として使われた紅花(べにばな)がありました。その紅花は最上川から日本海、瀬戸内海を経て上方へ運ばれたのですが、住吉大社の境内にはその紅花を商った「京都紅花屋中」が西を向く本殿1836年に献納した石燈籠(写真右上)や、同じ出羽国や会津から物資を運んだ「奥州会津 羽州米澤荷主中」が1727年に奉じた石燈籠(同左上)が現存します。このような遠隔地からの輸送も“住吉さん”が見守ったのです。1810年に建立され、国宝に指定されている4つの本殿が西(海)を向いているのもこうした“住吉さん”ならではといえましょう。
境内とその周辺には“住吉さん”の末社がたくさん祭られています。その中でも近年特に注目を集めているのが種貸社です。ここはその名の通り「種」(種籾・種銭)を借り受けるところで、それが最終的に大きな収穫や財産、あるいは子だくさんという形で戻ってくるという現世利益型の信仰の“メッカ”なのです。特に月初めの「辰」の日は、「初めての辰の日」=初辰=発達という語呂合わせでもって、とりわけ多くの参拝者が訪れます。商売繁盛を願う大阪商人にとってはとてもありがたい存在といえましょう。“住吉さん”はいにしえより大阪人の暮らしに結びついた神社だったのです。
上町に向かう道 ㉑ 2014年5月号
紀州街道2
安立町から住吉大社
赤ライン=今号掲載の街道 「安立本通り商店街」は所々に近代の面影を残す建物が今もあり、それらも眺めながらアーケードを北に抜けると、左右に端正な町家建築が現れました。街道らしい雰囲気といえばここが一番でしょう。どちらも個人宅で、大切に保存されているご努力に敬服します。
商店街を過ぎると景観は一転し、新しい住宅が一気に増えます。この辺りから北はしばらくの間、旧集落から外れた場所であったことがうかがえます。そう思って歩いているとすぐに「霰(あられ)松原」を顕彰した碑が見えてきました。安立小学校の東手にあたるこの地はもと安立町役場があった場所でもあり、小さな公園になっています。この地はかつて海岸線に近く、白砂青松の名勝地として知られていました。この松原は『万葉集』に「霰打つあられ松原すみのえの弟日娘と見れと飽かぬかも」(長皇子・ながのみこ)と詠まれていますし、天水分豊浦命(あめのみくまりとようら)神社という10世紀まで確実にさかのぼる古社がこの場所にあったことを伝える碑も建てられています。
そのまま北上を続けます。安立1丁目で長居公園通りを越え、住之江区から住吉区へと入っていきます。その境界を流れているのが細井川です。細井川が住吉大社のすぐ間近まで海が迫っていた古代から流れている川と考えられています。今は切り立った護岸に囲まれた、ただの水路になってしまいましたが、かつては趣のある流れだったのではないでしょうか。ここで細江川に架けられている橋は御祓橋(おはらいばし)という名前です。目立たない橋ですが、前回紹介した住吉大社の大祓えにちなんで命名された橋です。
ここからまもなくして電車道と合流しました。そして、広大な境内地をもつ住吉大社が目に飛び込んできました。紀州街道のハイライトの一つであるこの住吉大社については次回ゆっくり巡ってみることにします。
上町に向かう道 ⑳ 2014年4月号
紀州街道1
大和川から安立町へ
赤ライン=今号掲載の街道 街道シリーズは、今回から紀州街道を取り上げることになりました。紀州街道はその名前から知られるように、紀州(現在の和歌山市)へ向かう道、ということになりますが、ではどこと紀州を結ぶかといえば、それは大阪です。さらに大阪のどこかといえば、江戸時代以降は中央区の高麗橋でした。和歌山までの距離は48・8㎞。大阪市内北部では堺筋、南部では阪堺電車阪堺線と重なったり並行したりする道筋をとりながら、南へ向かいます。今回の探訪では、大阪市と堺市の境界を流れる大和川から高麗橋へ向けて北上することにします。
紀州街道が大和川を越える地点には大和橋が架けられています。大和橋は江戸時代、幕府が架橋した大阪では数少ない公儀橋の一つでした。紀州街道が主要街道だったがために幕府が直接管理したわけです。ここは旧暦6月晦日、住吉大社の大はらえの祭の時に神を乗せた神輿(みこし)が堺の宿院に向けて御渡りをした場所です。大和橋のすぐ北には親柱が残る「手洗橋」(流路は暗渠)がありますが、この祭礼に関わって身を清めたことに由来するものでしょう。
ここから北へは街道沿いに住宅が立ち並びます。その中には近代以降の町家建築も散見されます。まもなくアーケードに覆われた「安立本通り商店街」に着きました。この商店街は紀州街道の両側に形成されており、安立のなかでも古くから中心地だったところです。この商店街に入ってすぐに目に留まったのが、上からつるされた「一寸法師あんりゅーくん」のバナーです。一寸法師といえば、子どもがほしい摂津国難波の里在住の夫婦が住吉の神に祈願して授かった子です。そして一寸法師は京へ上る際、針の刀を身に着け、住吉の浦から器の舟に乗ったのでした。この針の刀が注目されます。安立町には古くから針商人が多く住んでいたことが知られており、彼らは商売の宣伝の折に「一寸法師」を語ったともいわれています。現在、安立町に針屋はありませんが、こうした歴史や伝承の関わりがあって、今、ここでは町おこしがはかられているのです。
今回は大和橋から1㎞に満たない旅でしたが、この地が住吉大社との強い結びつきを持つ場所だったことが感じられました。
上町に向かう道 ⑲ 2014年3月号
庚申街道3
西今川から四天王寺へ
針中野を過ぎると街道は西今川へと進んでいきます。この辺りは閑静な住宅街で、その間を抜けていくと今川公園が右手に見えてきました。公園に沿っては桜並木が続いており、春になればさぞきれいな花が楽しめることでしょう。
道は西今川2丁目まで北上し、ここで進路を西に変え、近鉄南大阪線の高架をくぐって北田辺に入ります。この辺りは少し落ち着いた感じのまちで、日本家屋や土蔵もちらほら見受けられます。ある民家の壁には「田辺本町三丁目」という古い住居表示が貼られたままでした。
右手に「新道商店街」と書かれた看板がありました。ここは短いながらもアーケードがちゃんと備えられている商店街で、少し寂りょう感が漂っていましたが、逆にそれに引かれて寄り道をしてしまいました。地元密着型のこうした商店街との出会いも街道歩きの楽しみの一つです。
田辺は現在、地域を挙げてまちの古い建物や景観を後世に伝えていこうという事業に取り組んでいます。その活動の一環で建てられた庚申街道の説明板が道筋にあり、街道が地域の大切な歴史遺産として大切にされている様子が伝わってきました。
いよいよ阿倍野区に入ります。「文の里明浄通商店街」に入り途中から北へ道をとり、しばらく歩くと大阪市立工芸高校がみえてきます。ここはデザイン・美術教育を専門とするわが国唯一の高校で、1924年開校という長い歴史を誇ります。本館正面玄関の大アーチが印象的ですが、この建物はドイツの工芸高校をモデルに当時の大阪市営繕課の技師が設計したといわれています。経済産業省の近代化産業遺産、大阪市有形文化財に指定されている、学校の性格によくマッチした建物です。
いよいよ終点が近づいてきました。JR天王寺駅を越えて直進し、玉造筋を渡って左へ折れると谷の清水です。そしてさらにここを右折すると、街道の名前の由来となった庚申信仰のメッカである庚申堂が左手に、そして正面には最終目的地の四天王寺南大門がみえてきました。今回歩いた庚申街道は9㎞余りと、さほど長い距離ではありませんでしたが、またひとつ上町台地へ向かう歴史的な街道を歩くことができ、満足感と安堵(あんど)感が自然と湧いてきました。
上町に向かう道 ⑱ 2014年2月号
庚申街道2
湯里から針中野へ
住道・矢田を後にして庚申街道は北進を続け、湯里に入っていきます。湯里は東住吉区の中心部からはやや東寄りにある地区です。大正11年刊行の『東成郡誌』によれば、湯里付近の庚申街道は雨天になると泥がひどく、歩行が困難だったとのことです。舗装が行き届き、住宅が立ち並ぶ現在の道筋からは想像もできませんが、かつての街道の光景が知られる貴重な情報です。
この湯里、もともとは湯谷(屋)島(ゆやのしま)と呼ばれていました。かつて温泉が湧き出していたことからこの名前がつけられたといいます。そうした伝承を思い起こしながら街道を歩いていると左手に森が見えてきました。湯里4丁目の住吉神社です。ここは住吉大社の第二本社の祭神である中筒男命(なかつつのおのみこと)を勧請した神社です。全国に二千百余社もあるといわれる住吉神社の一つで、その創建年代は明らかではありませんが、16世紀以前にさかのぼることは間違いないようです。実は当地はもと住吉郡に属しており、住吉大社傘下の神社が古くから多数分布したところです。ここの住吉神社もそうした歴史的背景の中で誕生したものと思われます。
さらに街道は針中野へと向かいます。針中野3丁目の辺りは道がゆるやかなカーブを描き、また直行しない路地も増えて昔の街道の面影を残しています。特に針中野の中心にある交差点付近には道標が建てられており、雰囲気満点です。ここはまた八尾街道の分岐点にもなっているところです。この道標は針中野の地名のもとになった中野の鍼灸を発展させた中野新吉が大正初めに設置したもので、北へ向かえば「でんしゃのりば」、西へ向かえば「はりみち」と書かれています。ここから250mほど街道を北へ進むと地下鉄谷町線が地下を走る道と交わりますが、この地点が「でんしゃのりば」、つまりもと南海平野線の中野駅があった場所だったのです。以前、平野線の路面電車の古写真を見たことがありますが、それは都市近郊ののどかな風景を背景に走る姿でした。その跡を自動車がひっきりなしに通る様子に時代の移り変わりをあらためて感じました。